日本人は、何かとプレゼント、贈り物をする習慣があります。人の家を訪問する時には手土産を、引っ越しをすれば隣近所に引っ越しの挨拶と共にちょっとしたモノを、何かにつけプレゼントをするのが普通のことで何も不思議には思いません。
日本語でご馳走であっても「何もありませんが、」と言って食事を勧めます。手土産を渡す時には「つまらないモノですが、」と自然にひとこと付け加えます。日本人であればその意味まで深く考える人はいませんが、一種の儀式、形式みたいに私達は感じているのかも知れません。
しかし、英語でこれを文字通り翻訳して言ってみるとちょっとおかしな意味にしか受け取られないでしょう。何もないと言いながら、この豪華な食事は何だと言うことになり不思議に思うでしょう。つまらないモノですと言って渡されたものがどう見てもつまらないモノには見えない、高価なモノにしか見えないとしたら日本の習慣を知らない外国人はどのように解釈するのでしょうか。
昔南米に住んでいた頃に旅行に行く度に知人にお土産を渡していたもののどうも相手は何故いつもプレゼントをもらうのか理解できないような雰囲気を感じたものです。何の理由もない、ただ旅行帰りに出される「お土産に」不思議な感じを受けるような異文化もあることを知っておくのも良いかもしれません。
日本人であればお世話になったと感じるとどうしても返報性の原理が作用してお返しをと考えるものですが、異文化ではどうもかならずしもこの返報性の原理が発動されると言う訳でもないようです。以前ベトナムの知人が来日する度に食事に誘い、家族へのお土産を持たせたりしたものです。特段見返りを期待してのことではなく、日本人であれば普通にするおもてなし程度の気持ちでした。偶々一度私がベトナムを訪問した時に彼がいろいろ世話をしてくれるかと期待していたのですが、日本人だれば普通に思うであろう「あの時お世話になったから今度はお返しにお世話しなければ」と言う考えは彼にはまったくなかったようです。
異文化でいろいろ人的交流する時には日本でこうだからあちらでもこうだろうと考えるのは概してズレがあることに気がつくでしょう。この辺はそういうものだと割り切ることしかないのかも知れません。それが異文化と言うものです。同じホモサピエンスでも環境によって、文化によって感じること、考えることは大分違ったものになります。
単純な言葉で言えばカルチャーショックと言うのでしょうか、文化が違えば大なり小なりいろいろなことでビックリすることが出てきます。異文化コミュニケーションではそんな違いがあるものだと割り切ってイチイチショックを受けないように心の準備をしておくと良いのかも知れませんね。